流白浪と裸武者のはなし
新作歌舞伎の流白浪燦星の牢の場面で、松也の演じる五右衛門が別人と衣服を替えて入れ替わりのため褌一丁で葛籠へ連れていかれるところがあります。実にけしからんありさまです(←字義通りに取る人はいないと思いますがけしからんは冗談です。一応書いとかないとね)
後で着て出てくるんだから、設定上着物は用意されてたんでしょう。なら着せ掛けてから動かしたっていいと思いません?
しかし深編笠ひとつに、意味あるの?と聞いていた松也くんがこれは了承したんだから意味があるんでしょうね(笑)
白塗りで入墨もなく褌ひとつの真っ白な役というと沓手鳥孤城落月の裸武者が思い浮かびます。なかなか過酷な役です。過去には錚々たる面々が連なりますが、階段を裸で落ちても大丈夫そう認定された坊ちゃん方ということになりますかね(暴言)
そこから立派な女形になったりするのが面白い所。
しかし玉三郎淀君のときは出さないことにしたようです。
シネマ歌舞伎化のときのインタビューに
裸武者と共に(下座音楽の)合方もやめたことが書いてあります。
玉三郎が語るシネマ歌舞伎『沓手鳥孤城落月/楊貴妃』| 歌舞伎美人(かぶきびと) https://www.kabuki-bito.jp/news/5226
一方で、玉様が孤城落月でやめたと思われる乱戦わざわい合方を刀剣乱舞では使っていたと思うし
ルパンでも、賑わう参道らしき場所では「どうぞ叶えてくださんせ〜」、聚楽第では「室咲の〜」と決まりのフレーズが流れます。
かつての「新歌舞伎」で残さざるを得なかった歌舞伎的記号を取り去っていくことをやってる人と
他のメディアを元に立ち上げる新作歌舞伎にわざわざ約束を入れてる人と
位相が逆で面白いと思った次第。
明治の新しい戯曲のベクトルからすると歌舞伎の約束がないのが本来ありたかった姿なのかもしれないし、
いま普通の演劇やミュージカルでなく歌舞伎を選ぶからには、積極的に歌舞伎の手法、歌舞伎の記号でやらねばならないのかもしれない。
先日2回目にルパンを見に行ったとき後ろの席の老婦人が、場面転換の長唄の一節を一緒に口ずさみ、お馴染みの台詞をなぞっていました。もちろんルパンのテーマやタイトルコールのタイプライターにはみんな沸いていましたけど、いつもの歌舞伎の方に反応している人もいるのは面白かった。
そのご存知の織り込みや遊びを抜いたとしても残るものが強かったかというと、そこは微妙。
全体から滲み出るあの頃のルパン味を残したまま、もうちょい謎解きや物語性を強めたエピソードができたらいいなと思ったりもします。
だいぶ脱線しましたけど、
こんなに連日満員売り切れの、リセールもすっからかんの歌舞伎ひっさびさに見たので、褌五右衛門も報われてるんじゃないでしょうか(別にそのおかげではないが)
あの孤城の裸武者だって、このくらい入れとかないと客が入んないよって入れ込まれて、百何年(初演からいたかどうかは知らないが)一定量のお客さんを支えてきたのかもしれないと思うとなんだか愛しき存在と思えますね
追記:クリスマスプレゼント
24日夜の追加公演。
つづらから逃げ出した五右衛門が山道に現れて、いつもなら黒の塗笠に上衣と袴のお馴染みの装束の所、
黒の塗笠を手に白いふんどし(お腹には晒し)の牢屋の中の姿のままで出てきて(尺八だけは持って)真面目にセリフを言い始めて、客席騒然。
笑コラで、松也くんが、ここは深編なの?セリフも喋ってるのに意味あるの?って言ってた箇所は(勿論裸ではない版で)ここじゃないかと思ってるんですが、
もしここで深編笠を被ったまま下帯だったら笑いしんでると思うので、深編笠じゃなくて本当によかった。
じゃあ、だんまりで着替えるのかなと思いきや、だんまりも裸でとおし、手探りのみなさんにタッチされ(そういう場面だから仕方ない)、蛇籠の先頭に立ち、夜が明けて見得まで全部それでまっとうされました。
可笑しすぎて何も頭に入らない。
追加公演御礼なのか珍しくあったカーテンコールで、私のお尻楽しんでいただけましたか?クリスマスプレゼントです。と松也。
着物用意してるんだろうから着せかければいいじゃん言うてすみませんでした
まさか用意してない版が来るとは思いませんでした。千穐楽は着てください。
廓でのルパン次元の贔屓の役者談義では、ルパンが浅草歌舞伎のチラシを持ち出し、贔屓は松也だが脱ぐ癖があるという話で笑いをとる。場面が変わりかけても上手では会話が続いており「浅草でも脱ぐかな」「昼は脱がねえだろう」「脱ぐとおもうぜえ」
宗五郎はいいけど、脱ぐ蝙蝠安とか勘弁してほしいw
ディスカッション
コメント一覧
まだ、コメントがありません