消えなさいって言われてもむずいよねローラ

演劇

ガラスの動物園/消えなさいローラ

紀伊國屋ホール
2023.11.11観劇 (ネタバレあります)


「幕の開く前や休憩時間や終演後に’70年代前半の日本のフォークソングが流れていました。
自分よりもう少し上の方であれば実感されるノスタルジーがあるのかもしれません
それはいまから数えて五十年前
ガラスの動物園の背景となる時代から数えると三十数年後

ガラスの動物園の初演は1944年と言いますから、大戦中です
その時代に、ほんの数年前の戦前のことを描いている
時が動く直前の危うい空気、ほんの少し揺れれば壊れるような予感のあった時期なのかもしれません

戦前。日本に置き換えれば朝ドラの頃
失踪したオヤジは糸の切れた凧
子供達を女手一つで育てる良家出身の母親
息子はオヤジと同じように家を出る
女達は引きこもったまま

もしフォークソングが外の喧騒だとすれば
戦争は終わり、外はあまりにも変わったのにローラは待っているということかもしれない

消えなさいローラは初演1994年
バブル崩壊後 作者は日本人(べつやくさんのお父さんだよやばい)
あの頃のことならわかる
流石にもう一欠片も戦後ではなかった
トムの心に棲む者か本当に待っているのかわからないもう薄れかけているローラ
トムが消える時ローラも消える」

「ツノを折られたユニコーンと、ロボトミー
非常に嫌な符合です
ただの変わり者ではなく、おとなしくさせる必要がある病だった
もしくはあの後そこに陥ったことを示唆しています
家族の中で最も弱いものに表れた歪みかもしれない
ガラスの動物園だけではそこまでは見せていない
心を抑えつけたことの比喩であればよいのですが

一方トムのように逃げ出して幸せになる権利はあるのです
けれど彼は逃げても心に残る小さな小さな灯火に苛まれながら生きた

トムの松也くんが自分が家族を支えているという主旨の言葉を発した時、ああこれをどんな心持ちで稽古したんだろうということがよぎってしまいました
彼の人生で、もしその肩の荷を下ろしてしまったら、と、考えたことはなかったろうか

お客さん各人もどこかイテテとお腹を押さえながら、自分の中の灯火と戦ったりしなかっただろうかワタシハチョットイタカッタデスヨ
ところで幕間(まくあい)20分以上に慣れると15分休憩は短いですね
お手洗いから戻れないかと思いました」

(以上、Treadsへの投稿を手直し再掲)


会場に入った時、流れている音楽が日本語の曲であることに気づきました。
あまりうきうきしない気分を感じる曲が入れ替わり立ち替わりに流れます。
いわゆるフォークソングやグループサウンズで1970年代のメッセージ性のありそうなものだろうと、聴きながら思いました。
PYGの「花・太陽・雨」が流れる中、演劇の本編に入っていきます。
本編に流れる音楽は打って変わって、コントラバス、バイオリン、バンドネオンの生演奏。それは思い出を彩る音。それとお母さんに止められてなかなか鳴らせない蓄音機の音楽。外から聞こえるダンスの音楽。演者の歌。
生演奏は効果音も兼ねており、長いおしゃべりの早回しの音や、葬儀屋だか探偵だか分からない男が、やばそうなお茶を飲むところのやばそうな音など、いきいきと付けられてました。
だけど客入れ、幕間は昭和日本。なんでこの曲たちがかかっているのだろうな…と最初の引っかかりがありました。
自分の置いてきた過去を呼び覚まされる人もいることでしょう。渡辺えりさん自身の思い出にも重なる時代なのでしょうね。
私は「戦争を知らない子供たち」より少し下の世代なので知ってはいるが思い出の音ではない。遅れてきたという思いは世代それぞれにあるでしょうが、’70年代を若者で過ごせなかったこと、が、私にとっては遅刻のひとつである。

「花・太陽・雨」は、私らの界隈ではウルトラマン絡みで話題に上がることがある曲なので、曲名まで分かりました。あとは遠藤賢司の「カレーライス」と、ザ・タイガースの「坊や祈っておくれ」、頭脳警察の「さようなら世界夫人よ」が名前まで分かった曲。
目の前には、松也さんの顔をして笑みを浮かべた、トムのおとうさんの写真。軍帽をかぶっています。
チラシには、えりさんの「平和を待ち続ける死にきれない死者達」という言葉があります。
しかし、このガラスの動物園の中で、時代背景としてもうすぐあの戦争が始まるということはよく分かるけれども、この「平和」はセカイの平和というより、こころの平和であろうと思ったし、親兄弟のことについて若干身につまされることがないでもないので、家庭内のいたたまれないことと、少しの間の幻の光、ラストダンス。そういったものを私は捉えていました。

「消えなさいローラ」作者の別役実は、私にはNHK「みんなのうた」のいくつかの歌の作詞者。(みんなのうたは、確か作詞作曲者が読み上げられるのです。あれは良い文化。)
まあ、同じ時代にいた人、です。
「ガラスの動物園」の作者テネシーウィリアムズの本名はThomas つまりトムだそうです。
アメリカの戦中のトムから日本の別役実へ。
そして、舞台のなかの戦前、から、いつだかわからないときのなかへ。
「消えなさい」では、外の電柱(三丁目の夕日に出そうなやつ)だか中の柱だか分からないものに掲げられたおとうさんの写真におおきく赤いバツがついています。
その変化をつなぐ現実の幕間には70’sが流れている。
舞台の上では蝋燭も砂も尽きない悠久の時間が流れ…止まり…続けているけれど、ドアの外はすっかり変わっていたのかもしれないですね。
あの頃、もう戦争が終わったと知らずに密林に隠れていた兵隊さんもいました。
そうしてずっとなにかを続けている人に、現実を知らせにやってくる人があったとして、本当に納得のいく形で終わらせることは難しい。

トムの中のローラは、トムが死ぬまで小さなともしびを絶やさなかったのではないかと想像します。トムがそれを消せるような人だったら、このような回想を残したりしないのじゃないかしら。
トムが亡くなったと知ったとき、ローラの中のローラは消えたのでしょうか。そうであれば哀しい。葬儀屋(仮)のおにいさんがあなたがローラですと言ってくれたとしても、ローラ自身が自分がローラかどうか分からず、確かにかつてローラであったと認めてくれる存在のお母さんも、トムもいなくなった。
砂の中に埋もれたかつての自分は見えなくなっていく。つらいことです。消えなさい、と、私には言えない。

ずっと何かを気にしながら生きてきた人が、自分を許せますよう
また、人がその人のまま生涯を過ごせるように、医学と人の認識が進歩することを同時に願うものです。


2023年東京の現実の話

・どちらのお芝居も間がとてもよくて、心地よかった。
ちゃんとできていることを当たり前として気にせずに話に入れるのは大変ありがたい。
(次の日別のお芝居を見にいったのですが、それもちゃんとできていてしあわせであった。2連アタリは珍しい。)

・通路側席で、通路を通っていく俳優さん達が大変近かったです。トムさんの鞄が自分の脚をかすめたりしました。
お肌つるつるをがんばって直視したが、遠く用の眼鏡は近くにピントが合わないというジレンマ。

・あんな激しいお母さんいたらやばいな。いや、いるんだろうな。いるもんな、ああいうお客さん。

・休み時間、お手洗いに並んでいるときや、退出するために階段を降りていくときなどに、ローラの人がうまかったとの声をちらほら聞きました。
ひと組の方が名前は知らないけど、って言ってた。
いろんな角度のお客さんが来てるんでしょうね。客層が老若男女って感じでよかった

・休み時間に書店のお手洗いに並びに行きましたが、劇場に戻ったらあんなに長々と折り返していた劇場内のお手洗いの列がなくなってる。中の方がはやいのねん。教訓を得た。

・私の見た日は和田さんが「消えなさいローラ」の日で、最後のほう、中の人(中の人などいない!)が出てきたとき、えーとどういうことなんでしたっけ?ってなりました。
#ちょっといま、思い出しながら絵柄がべつやくれいさんのイラストになりがちでした
歌舞伎だと、あれ、ぶっかえりかもしれませんね。ぶっかえられたらえぇぇっ、どゆ意味?てなるけどな。(←反応一緒)。
もういっかい、えりさんのも見る予定ですが、これは藪の中的に皆違うことをやるのかな???

・本水というのがありますが、この舞台は、「本砂」とでも呼ぶべきものがあります。
それ故に、カーテンコールでお辞儀をするときに、松也さんの帽子からザザーと落ちる砂。砂も滴る。

・ラスト、青い花びらが舞いまだ演奏が続いている中始まる拍手。ちょっと早くないかい。
あと、予定調和なスタオベは、起立って言われて立つときと似たような感覚がある。そんなテンションあげあげで観終わってないもの、しんどい。頑なに座っているのも野暮なので立つけど。

・音楽のことは、えりさんのFbで語ってくれるそうです。すべて終わってから見ようかなと思います。

おうちに帰ってからの話

Blue roses と聞き間違えられた病名のこと。

ここ(英語です)についているコメントに
「Google books によれば、pleurosis は1960-70年代まではよく知られたpleurisyの同義語であった」旨が書かれており
以降はほぼガラスの動物園への言及によって生きながらえている言葉らしいです。(自分でGoogle booksを眺めましたら、あとは薬草の本がありました) ↓

“Laura is suffering from a medical condition called pleurosis, which made one of her legs shorter than the other."

で、このブログの本文の方は、学生が「pleurosis という病気がローラの片足を短くしてしまった」と結論づけたことについて書いてあります。
たぶん辞書を引いたけどあまり使われない言葉であるpleurosisを見つけられなかったので、作者がpleurosisと足が不自由という二重苦を与えたと思わずに、自分でpleurosisを定義してしまったのだろうと。
おやおや、です。私も舞台見ながら、ぶるーろーしす(と聞こえた)とやらの後遺症で足が不自由なのだろうか?と思いましたので。この言葉を知らなければそう解釈してしまう罠がある。そう、知らなければ……って、知らないでしょうよ。そりゃあ。
前置きが長くなりました。
pleurosis (pleurisy) は胸膜炎で、肺の病気で休んだ話の病名なのね。
んで、それはそれとして足も悪いということなのね。
(結核であれもこれも発症したという可能性も微レ存)

流れでGoogle Booksをあたっていたら、英語のペーパーバックの巻末注に色々載っていて、ああ日本語にする時に差し支えない表現にしましたねという言葉がぽつぽつありました。
多少勇気ある"びっこ"ですら、もっとマズい言葉の代替ではないかと思う。
お母さんが娘であった頃の南部の事情や1930年代のアメリカに興味があれば、観劇中にピンとくるところもあるでしょうが、その素地がないんです。
なにしろいつもマゲとヒーローしか観てないからな。

そういう意味では、前提知識(一般教養。本歌)であるガラスの動物園を見て、消えなさいローラが見られる親切企画はありがたかったです。
忠臣蔵と派生もののような感覚ですかね。忠臣蔵知らなかったら松浦の太鼓わかんないもんね。

願わくば
こういう長い時の休憩時間は20分にしてください。切実であります。

演劇

Posted by kikuyamaru