父の厳格、母の寛容 …ハルサーエイカーについてのあれこれから
自分の信念に従ってきたリョウが、最後の最後に銃を下ろす。ハルサー1ではアイを逃がし、2では又吉を逃がした。これについては、先に、各話の感想で、リョウにハルサーの言う物語を信じたいという気分があったのではないかと書いたが、少し別のことも考えたので書きとめる。
大河ドラマ「八重の桜」を見ていたら、父が幼い娘を叱って蔵に閉じ込めるという古典的なシーンが出てきた。この作品では、兄貴が握り飯を持ってくるが、よくあるのは、お父さんが叱りっぱなしで、そろそろ止めてくれよというところで、お母さんがとりなすという図式だ。
8割がこうあらねばならぬという心だったとして、残り2はもういいかなと思っている。こんなときに、「2」の方に向けて説得してくれる人がいると、そう言うならと拳を下ろせる。責任をすべて自分で負わなくてもよいという逃げ道もできる。ヘラーはこういうおっかさんの役が上手だ。
リョウのようなカチカチの人間が相手の場合、ただいなすだけでなく、そこに理があることが案外大切なのではないかと思う。
筋を理解したというプロセスがあることで、自分の行為を受け入れることができる。ただ感情にほだされてやめるということでは、自分のあり方として納得できないだろう。
(脱線 カマーは、リョウほど頭を経由しない。感覚と経験で理解するタイプだと思う 脱線終わり)
しかし、リョウさんはじっくり話を聞くことは苦手だ。こんな相手とどうやって議論して説得するか。
「和」のために「理」詰めの手段をとるということは難しい。議論自体に決着をつけようとする態度ではいけない。相手は負かされたと思えば力に訴えてくる。相手に理解できる筋で話すということが大事になる。
この難関を突破しアイちゃんはリョウの説得に成功したようだ。
だが、だれにでもこの手でいくかというと違って、祖には、折れたヘラーを見てやってください、と訴える。これはもう、理屈ではない。
古い話になるけれど、滝田栄の「徳川家康」でのこと。
役所広司の信長が何かくれと広げた手のひらを付きつける。
家康の母である於大の方は「母の心」を差し出す。信長は付きだしていた自分の手をぐっと握って、確かに受け取った、と去っていく。
こういう手でいくしかない相手もあるのかもしれない。祖とか信長レベルの場合。