猿飛三世に、成就しなかった物語の影を見る

2022年11月7日時代劇,風神の門

金子成人がメインライターをつとめた風神の門というNHKの時代劇がある。1980年の作品。
司馬遼太郎の同名小説、梟の城、城塞を原作にとり、キャラクターを活かして違う話を仕立てている。主人公は霧隠才蔵。
同じ金子成人の書く、猿飛三世の初回を見たときに、「風神」に思いを残す者たちは、お市が言う「ごろた石」という言葉からメッセージを受け取っていると思う。
石垣と石垣の間を支える小さな石。
それはかつて、風神の門で真田幸村が霧隠才蔵にかけた言葉だった。
最終回、再び、風神の門のモチーフを見る。
ただし、悲劇性は排除されている。この話自体がオーソドックスな時代劇(歌舞伎ちっくですらある)の姿を借りて、ストレートにできている。
滅びる側にあるという縛りがなかったら、全てが悲劇にむかって転がっていく必要はない。
7話でお市が言う。
「忍びであろうとなかろうと、人はもっと違う道をみつけられるのではないでしょうか」
所司代北倉(!)に裏切られる伴蔵には、もちろん板倉に裏切られる獅子王院の影が映るが、あれほどの複雑な厚みはない。
獅子王院は全ての望みを奪われても生きて去る。
伴蔵の生死はわからぬ。
再び、ごろた石について口にする佐助。商人になるという才蔵。2人で生きることにした鬼丸夫婦。
どれもかつての風神の門での才蔵を思わせる。
花嫁になって思い出を語り継ごうというお市は、一生輿入れのかなわない大奥へ思い出だけを支えに下っていった青子の本当に望んだ姿だったかもしれぬ。
浪人たちは忍びの里へ新天地を求める。それは真田幸村たちが忍び達とともに九度山を降りて無駄死にしたのとは対照的だ。
佐助(三世)は、旅立っていく。
地面に這いつくばって青子を見送るしかなかった獅子王院や、隠岐殿と炎の大坂城で運命をともにした佐助(風神)の果たすことのなかった、姫君と忍びとの街道での笑顔の別れだ。
私はそこに、もし運命が違っていたら、悲劇でない別の結末があったならという、影を見てしまう。
誰も殺さない佐助の誓いは、誰も死なない物語に繋がる。
そういう物語の主人公が才蔵ではなく佐助なのは、なんとなく分かる気がする。