黄金の日日(1クールめ)− 船はいまだ夢の中にして、すでに神話の日々は去りにけること −

2021年8月31日時代劇,黄金の日日

1クール(13話)を終わった時点での書き物をうっちゃったままにしていたので、上げておきます。

ネタばれあります。
先読みネタバレ絶対許さんという方は引き返してください。
(よし。一応警告した。)

黄金の日日の再放送1クールが終わりました。
それを区切る第13話の締めは善住坊と助左の別れで、漠然とした予感の中の静寂でした。
「クール」なんて分け方はもう古典的かもしれないけど、この当時はまだ意味があったと思う。
1クールは13話。2クールで半年、4クールで1年。
13話だと立ち上がり部分という感覚です。
現時点で助左衛門はまだ、国内での最初の商いにも踏み出していない。そんなまだ先のある話なのに、重要な種はもうほとんどまかれたと言えるかもしれない。それがまた意外なのです。
こんなに最初のほうに固まってたっけ?という気分。
あとはその記憶を大事に大事にしながら、大きな夕日を見守るということになるのを、1周した人間は知っています。
自分は、2.5周くらいは見ていますが、この作品に対する私の印象というのは、おそらく再放送を見た10代後半から20代前半に形作られたものです。(いまの歳は…お察しください。ちなみに本放送も見ています。)
以前、親が録ってくれた録音を聞き、BSの見られる場所でかじりつきながら見ていたあの頃の解釈では、"黄金の日日"というのは、堺という独立独歩の理想郷が存在できたつかの間の時代であり、助左はその思想を受け継ぐ存在である。
誰の意にも従わない。
相い敵するものもこの地においては友人のごとく談話往来し、戦うを得ず。
しかし、その堺の全き姿はわずかの間しか続かない。「堺は、この街は…いつか元に戻りますか」という五右衛門の問いに対する宗久の答えは、堺が元の形で戻ることはないことを暗示します。
助左はその理想の堺のありかたを取り戻すべくあがきながら、夢に挑み続け、そして…さすがに最終回の描写は差し控えますが…、この作品において堺というのはいったいなんであったか、それを守るとはどういうことなのかに一つの答えを出す。
私は、この人々すべてを包含する美しきひと頃が"黄金の日日"であったのだろうと、そういう風に思っておりました。

いま、その最終回の助左衛門に近い歳になって、見返して思うのは、もう少しカメラを人々に寄せて見られるようになったなということです。
この最初の1クールに詰め込まれた、朋輩との命がけの濃密な日々。(それはもう飲み込まれ放題巻き込まれ放題)
身寄りがないという共通点でピックアップされただけの助左、善住坊、五右衛門の3人がほんのわずかの間に過ごした生涯忘れ得ないその時その時も、永楽銭の結んだ藤吉郎との縁も、皆皆"黄金の日日"であったことが、以前よりずっとわかるようになりました。

この前向きに後ろを目指す物語を引っ張っていくのは、まさにこの最初の1クールの日日への憧れであったと悟りつつ、しかし、かつて私を夢中にさせ、その先から最後まで伴走させたのはなんの力であったのか、と自問しながら、助左を追う日々は続きます。たぶん。