ハルサーエイカーすごろくとしてのエイカーズ(雑談)

2020年12月15日エイカーズ,ハルサーエイカー,ローカルヒーロー

ハルサーエイカー the movie エイカーズ
ハルサーエイカーの劇場版について。もう封切りからだいぶ経ってしまいましたが、
何か書こうと言ってたの出してませんでしたので、黄金版BDと完全版DVDもうすぐ出るよ記念でひとつ。
TV版、映画版両方のネタバレあります。知りたくない方はこのページをそっと閉じてください。
あ、別に、うぉりゃーーって閉じていただいても構いません。
劇場版は、とにかく見た目がすごく変わったので、拒否反応がある人もあると思うのですが、
うちら、もう、制作発表から、ながーいながい時間をかけて慣らされてきましたからね。
ドブーとチリーは、中(の人などいない)が入ってしゃべり始めると、一応ドブチリになるんですよね。
ヘラカマはビジュアルが違いすぎて、特に色が、今までカマーの色だった緑がヘラーになったので、結構困惑しました。
が、何回もショーや配信やイベントで見てどうにか慣れてきました。やっぱ、声の芝居によるところが大きくて、しゃべればヘラカマだなあって思う。
このデザインを初めて見た頃、思ってたのはね、マブヤーのティーチとターチで俳優さんが代わるでしょう?ヒーローの姿は同じで役者が代わる。
しかし、マブヤーは、前に、方言のエントリーのときに書いたように、闘わない、未熟な、成長するヒーローというエッセンスを、最近作に至るまで一応引き継いできたと思っていて、その姿とともに、マブヤーはそういうものだという定着を得たと思うんです。
ハルサーエイカーは、ヒーローの姿を変えて、役者さんは代えずに映画に挑む。
まったく違う姿を持って、何を継承するのか。"ハルサーエイカー"であるとはどういうことなのか?
それを見に行くのだと決めて、ずっとずっと待っていました。ずっとず…zzzzz 長かったねえw
エイカーズを見て感じたことは、ハルサーエイカーの1,2で起こったイベントをとにかくちりばめた作品であったなということ。少しずつ違えて転写したような。
3回見るころには、ハルがハルサーエイカーとしての階段を上がるにあたって、アイと同じ道のりを歩いているのだな。それは、ハルサーエイカーのすごろくがあって、各々がサイコロを振って、いきつもどりつしながら、あがりを目指していくようなものではないか、とぼんやり思っていました。


以下、映画のストーリーに対して前後するところもあると思いますが、そんなアイとハルの道のり、すごろくのマスを並べていきます。
全部記憶なので、細部違っていたらごめんなさい。
◆ハルサーエイカーとしての振り出し
アイは、天賦の才能をもって1シリーズの最初から教えられずしてクラストを体得していました。
これは、まあ、才でもあり、もしかすると、末っ子の要領のよさでもあるのかもしれない。
考えずに感じることができるアイに対して、ハルは頭で考えることにより自身の能力を補完しているきらいがあります。
それは、エイカーズの冒頭での、技術も必要だよね?という言葉にも現れている。
ハルサーの家に生まれながら、カンジャーエイカーとしての能力も後天的に身につけることができたハルですから、同様になんらかのメソッドのもとにハルサーエイカーの能力を強化することができると思っているのかもしれない。
実際、クガニ野菜を手に入れるために、カフー御嶽で精霊と闘うというショートカットによって、副産物的にクラストを得ています。これが2の話。
ただし、ハルが見つけたクガニ野菜はアイの3つめとして"くわっちーさびたん"されてしまいますので、ハル自身は、エイカーズの開始時点で未熟なままです。クラストを自由にまとうことができません。
1シリーズでのアイ以前の能力からのふりだしです。
ただ、自分はハルサーエイカーであるはずだという期待と使命感だけは持ってスタート。
◆人々との邂逅
今回の映画では、ハルサーエイカーを召喚する少女「五月」が現れます。この導入の役割は、TVのハルサーエイカーではなかった存在ですね。
しいていえばヒカリちゃん。これはしゃべる野菜の存在を信じる少女である。
ハルサーエイカーや、旧来の沖縄が守ってきたものへの理解を持たない(かのようにみえる)存在として、「安じい」(アンジーw?)
これはまあ、清純さんのポジションに近いでしょうか。本当の無理解ではないんだ。でも普通の現実を見ている人間でしょう。
対極にある存在として「高おじい」。沖縄の旧来の文化や土へのまなざしを持った人間です。
このせめぎあいと和解。最終的には土との和解をしていく様子。それが「人間」の象徴なのでしょうね。
◆伴走者としての収にいにい
この2極の間にいて、作品が変わるたびに、どんどん土に近いところへとステップアップ(?)していくのが収にぃですね。
1で出てきたときは、都会かぶれしたラッパーであり、ゥワー仙人の姿を見ても信じようとしないような、現代的な観念に縛られた人間でした。
ただ、1でも、もともと、雑草(ではないが)を探す才能があったことが語られていますが、そもそもは土になじみのある人間だったのかもしれません。
2では野菜を料理して食べさせ、ついに映画ではみずから野菜を作るという。
音楽の才能や、商売の才能はなかったようですが、料理は美味い、野菜も上出来、となればたとえ一面でうまくいっていないように見えても、「自分のできること」を上手に見つけているといえるのではないでしょうか。このお話はそういう収さんすごろくでもあります。
また、うーとーとー(お祈り)は大事にしなければならないという意識の持ち方がありますが、
こういうものは、一朝一夕にできたものとも思えないので、多分こどもの頃にそう教えられ、身につけてきたのでしょう。しかし「見えないものは見えない」ほうの人間代表だと思うので、そういうものへの畏敬の念はあるものの自らの利害のためには、ものが見えなくなるとこがあります。
◆ドブチリと出会い。ノーグとの再会
少なくとも、1発目は向かっていくんですね。1のアイも、映画のハルも。
1で、アイは自分の危機をきっかけに幼少時以来忘れていたノーグ達と再会します。
映画では、ハルの危機をきっかけに、ノーグ達が姿を現します。
◆力を信じるもの
もうひとり、斜め上の価値観をもった存在がいます。
1のリョウであり2の又吉である。話は通じないし、力が正義だというタイプですね。
で、映画の又吉は「お金が好きだー!」ですな。力とは腕力だけとも限らない。オツムであったり、お金であったりもする。
◆そしてラスボス
しんちゃんですね。(ぉぃ
このへんで役者はそろったと言えるでしょう。
◆1つめの野菜を見つける
アイは野菜の探し方を知らないけれども、ハルサーエイカーとして見えないものを見、聞こえないものを聞くという超自然的なフィーリングによって、野菜の場所を感じているように見えます。
ハルのほうは、2で御嶽の精霊から野菜を授かっているけれども、ハルサーエイカーとして自分で探すのは映画が本番。
高おじいが丁寧に育てた畑であるということを聞き、実際に目で確認して、ここにあるという期待のもとでのクラストは成功します。
アイが、とにかくがむしゃらにクラストしては走りクラストしては走りという手当たり次第な探し方をしていたのに対し、
ここにあると考えたところにある。これがハルの野菜探し。
で、1個目の野菜は、やかましい(^^;;;)
納得して食べられる野菜に対し、忘れないからねという、アイと同じあのセリフをハルも口にします。
◆闘わないヒロイン わかり合えない相手
1のアイは、特にリョウに対しては戦うという手段ではなくわかりあおうとする。力が正義という論理への対立です。しかし相手が戦う態度であるため途中、交戦せざるをえない。
ハルは登場以来戦わない態度を貫いていて、映画ではわかりやすく戦いを止めに入ります。だが説得できません。
◆2つめの野菜を見つける
2つめの野菜は、亡くなった人への思いの中から見つかる。
その思いと土との重なるところに、野菜があるという確信を得たときに野菜は見つかる。
アイの2つめの野菜は、アンマーベニー。ハルは、とぅがらおじい。
アイは、清純、ヒカリの親子と一緒に、亡くなった人との思い出をたどります。ともすると、不思議な力があるかのように見えてしまいます。あるのかもしれませんね。
ハルは、かつて見た安じいの畑の様子と、ほかの打ち捨てられた「ごみ」とを対比し、そしておそらく安じいが息子夫婦への思いをずっと残していることをその言葉から読み取って、畑が実は手を掛けられていたということに気づきます。このことは、ここまでのプロセスをたどり、あまのじゃくな人の心をくみ取ることのできるハルにしかできないことであったでしょう。みえないものを見るというのは、神秘的な意味以外に、そうした裏付けから人の心を見抜くような能力のこともあるのかもしれない。
“畑のユタ"というセリフがありますが、ユタもまたそうした2面があるのではないかしら。
◆仲間の喪失
アイは戦いの末、ヘラーを失う。
ハルはカマーを失う。
仲間を失くしたことによる、無力感が支配します。しかし、仲間のしてきたことも一緒に背負って進まねばならない。
TVではヘラ―を失くして先へ進めなくなるカマーをアイが説得していました。
アイは、ヘラーの遺志を背負った存在であり、ヘラーの言葉を反芻する。
ヘラーのしてきたことを生かせるのは、それを知る自分たちしかいないのだという思いがそこにあります。
そして、雑草はないというオサムの言葉を得て、自分という存在にも意味があるのかと自問するカマー。
映画ではカマーを失くしたハルをヘラー自身が説得します。これまでしてきたことを無駄にするな、ハルにしかできない。と。
この作品には、各人がなすべきことがあり、それは余人に代えがたい。お前が背負わねばならないということがいつも根底に流れています。冷たいと思うほどに。
「やらんといかんわけよ」
未熟なままなにも知らずに旅に連れ出されなければならなかったアイも、
アイを助けるために、ジョーはなぜ手伝ってくれないのかと嘆いていたハルも、
そして、しゃしゃり出てきたものの、自信を無くしアイを呼んでくれと頼むハルも、
やがては自分のなすべきことをなす自覚を得て前に進んでいきます。
自らの手を出さなければ零れ落ちてしまうことがある。
そして、一度手がけ、進めてきたプロセスを共有したものだけが成せるなにかがある。
◆失ったノーグの復活
2でカマーは比較的すぐ戻ってきますが、ヘラーについては、ハルが並々ならぬ情熱をもって現世へ呼び戻すことになります。
映画では、カマーを呼び戻すのは、また別の人の情熱でした。
ノーグは自然物ではなく、人の手で作られたものです。それが人の姿をとり、話すには、おそらくは使う側が相棒としてそれらを認め、人のように扱う心が必要だっただろうと想像します。その人としての姿を強く信じることが、一度離れた彼らの心を呼び覚ますのではないだろうか、と思ったりします。
◆闘わない、から、力の行使へ
アイは、ためらっていたクラストギアを使い、ドブーを斬り、最終的に土に還します。
2では、そういう躊躇はすっとばして、こういうやり方でしか分かり合えないと言って、ドブチリと争いを繰り広げます。それは相手のやり方を理解したということなのでしょうか。相手を致命的に傷つけることはない、ゲームのような争奪戦です。
しかし、それがあらそいだよ、とハルは言う。
そのハルは映画で最後のクガニ野菜を食べた後、完全に変身ができるようになり、めざましい戦いを見せます。ここで生じた変化は、1と2の間でアイに生じた変化と似ているように思います。
あれほど戦いは無意味だ、分かり合おうと、止める立場であった人が、なぜすんなり戦いに入っていけるのか、私にはわかりません。
互角以上のチカラを得たときに何かがかわるのでしょうか。
◆敵の喪失
1では、前述のとおり、アイがドブーを土に還してしまいます。ドブーがどんな奴だったのかそれはバーコードには書いてない。
映画では、横からのチカラによりチリーが自我を失う。チリーが別のものになるくらいなら、とドブーはひとつの決断をします。
「ワンはワン」そう言って自分の尊厳を守った2のドブーを思い出します。
◆再び、ことばによる説得と自分自身への回帰
アイの諦めない姿を見ておそらくゆさぶられていたリョウの心に届いたのは、リョウのわかることばによる説得でした。それはエイカーである背景をふまえ、リョウの立場、心を理解していなければ出てこないことばです。そして最終的にはリョウとは話ができたのだからドブチリとも分かり合えたかもという予感を得、祖にも心を伝えています。
2では、ハル自身が自分の現状をみとめ、OKであると受け入れることにより、同じように弱い自分を受け入れられなくなっていた灰間を呼び返すことに成功しています。
わたしは灰間。
自分はなにものか。自分は自分である。ドブーはドブーであり、チリーはチリーである。2ではそういったテーマも流れています。
映画では、ハルが"木の葉"と対話をしています。
自分のゆめを思い出したとき木の葉はもとの木の葉に戻る。
わたしはハルサーエイカーだ、という確認から始まったおはなしは、わたしは木の葉だという確認で結ばれる。
いずれも、アイやハルとのやりとりを介して本来の自分のあり方を確認したときに、それまで執着していた恨みを手放し、少し穏やかな存在に変わっています。
(ところで、映画ではここにくる前に一度チリーごとざっくりやっており、結果的に、話を聞いてもらえる状況に持ち込むことはできているのだけれども、プロセスはそれでいいのか?力でここに持ち込んだことにハルは納得してるのか。ちょっと聞いてみたい。)
◆帽子をかぶりなおして
ハルサーエイカーに決まってるだろ!いう叫びは
かつては、ハルサーエイカーになりたいんだよ!でした。
ハルサーエイカーを選んだ、あの道で、帽子を目深にかぶり涙をかくして進み始めたハルの姿と、
ハルが残した帽子をかぶる五月の姿は重なります。
ハルサーハルからもらった志は、おそらく五月の心のなかで芽吹き、育ってゆくのでしょう。
そして、帰り道に舞い込んだ緑の葉を掴んだように、ハル自身もまた再びなにかを掴んだのだと思う。
あのとき、ジョーの目の前で小さな葉を掴みとったのと同じように。
おじいやジョーから受け取ったものはアイやハルから更に次のひとびとへ受け継がれてゆく。
ひとがひとを知り、そのこころをあしたへとつないでゆく世界。
何代にもわたり、種を採り、植え、耕し、次へつないできた無数の"エイカーズ"。
あがりは、ないんだ。
かつて来た道はどこだ?
そして、つぎのふりだしは、どこだ?
また物語をきかせてもらえるかな。それまでこのマスで、次の主人公を待つことにしましょうか。