ハルサーアイと方言(2)

2020年12月15日ハルサーエイカー,ローカルヒーロー

さて、ハルサーエイカー2で、アイの姉であるハルは"アイは新種の男なんじゃないかと思うことがある"、と言っています。
論文(2012)のデータでは、アイの使う方言が男とかわらないことが読みとれます。
しかし、私は、アイがそんなに男っぽいと思わなかったのです。


以前から引っかかっていたことがありました。
ハルサーエイカー開始時、ネットの掲示板には、アイのことばの汚さが指摘されています。
たとえば、語尾の「〜ば」とかです。
子供に見せたくないとまで書かれています。
また、ハゴー、という言葉は、マブヤーではよく出てくるが、汚くて普段使わないという。
ここが、沖縄に所縁のない私には実感としてわからないところなのです。
うちなーネイティブの人には、口調が激しい以上のものが伝わったのだと思いますが、私は、そうなの?そんなに乱暴な言葉遣いだったんだー(棒読み)みたいな気分でした。
おじさんが「はいさい」で、七葉が「はいたい」、なのはなんでか。
はいたいは女性が使うと書いてあるけど、私には違いがわからない。
ちゅらには、美と言う漢字が当てられるのでそういう意味かー、と思うが、
「ば」がどれだけ乱暴で、ハゴーがどのくらいイヤなことばかわからない。
私にはハゴーもチュラも無色透明です。
しかし、論文を読んだことで、ちょっとシナプスが繋がってきたことがあります。
手がかりとなったのは、方言ではなく、セリフの中の「便所」という言葉です。
1stシーズン1話で、家に襲ってきたドブーに対してアイが言うセリフの中に出てきます。
これを聞いたときの印象は、外国語をヒアリングしていたら、ニュアンスがわかる言葉の爆弾がたったひとつ耳に飛び込んできたという感じ。
古風な言葉です。たぶん沖縄でも古風だろうと思います。
私の母は使っていた。大正生まれの祖母も。ただし、「便所」とは言わない。「お便所」という。
若い女が「便所」と言い放ったら、インパクトがある。
粗暴で、かつ、露骨である。しかもいまやほとんど死語なので、より不自然です。
して、この「便所」の異常さのニュアンスは「トイレ」しか知らない子供に伝わっているんでしょうか。
同じことが、私とうちなーぐちの間にも起こっていたかもしれない。
「便所」と同じくらいのニュアンスを、その前後のセリフが持っているのだとしたら、
私は全然そのメッセージを受け取れていなかったということになります。
そういえば、子供時代のアイが、カマーと喧嘩を始めるとき激高して「たべてんし!」「やるば?」「やるば?」の応酬になりますが、
現代の一般的な女の子の表現だろうと思われる、ひかりちゃんと友達は、こうした言い回しを使いません。(※なまってはいます)
アイちゃんが相当なガキだったことを示すエピソードだったということでしょう。
いや、四の字固めで十分わかるだろって?うーん。男兄弟がいたら、プロレスごっことかすんじゃねえかな。ちょっと腕白だったんだねーくらいに思ってたわけよ。
アイちゃんは、祖には「やー」(Youのこと)と呼びかけて「誰に『やー』」とたしなめられてもいます。どの程度ぞんざいなのかは実感がありませんが、「やー」には敬意がないらしい、とわかります。…最終話でわかる。というね。
こうしたメッセージが、沖縄の言葉の分からない人にそれほど伝わっていないとすると、変身ものの中で、もし、アイのような男女超越の子でなく、クレアのような、主人公の恋人となる女性が方言を使っていたとしても、外部の人のほうが抵抗なく受け入れられるのではないか、と、思ったりします。
(ところで山田さんはそんな難しいこと考えてアイちゃんに方言喋らせてますか?ただ、アイちゃんは方言を喋る子、だっただけじゃないです?)
最後に、性差とは別の点について、論文(2012)では、マブヤー(とくにティーチ)にあった、主人公の弱さや、闘いを厭う沖縄のヒーローの典型をハルサーエイカーで再生産しているといったことに触れていますが(手許に原文がないので表現の違いはご容赦ください)、ハルサーエイカーの書き手の側に、「『琉神マブヤー』でできなかったことを、ある種のヒロイズムをテーマにもう一度やってみたい」(おきなわ倶楽部 2011.9)という意識があったことを考慮すると、主人公の弱さや闘いを厭う姿は、沖縄のヒーローとはそういうものだ、という形を示しているわけではなく、この2作品の根が同じであることの現れではないでしょうか。
頼りない主人公は、頼りないままではなく、力をつけてくる過程で「希望」に見えるような変化をとげること、次の作品ではもっと頼もしい姿で出てくることを、私は追加しておきたいと思います。
作り手が異なりますが、誰よりも強いオジイ…となるであろう若者が、自分の意思で変身することすらままならなかったり、マブヤーたちと、マジムンとアメリカマジムンが、遊んでんだか戦ってんだか分からない状態をくりひろげる「1972レジェンド」という作品は、未熟、戦わない、成長という要素を、非常に端的にエッセンスとしてくみ取っているといえ、マブヤーに限って言えば、こうした典型は確かに受け継がれていると言えそうです。これが沖縄のヒーローのステレオタイプとなるかどうかは、後発如何です。
脱線。いったー、とやったーどう違うの?と思っていましたが、高橋先生の文で初めてわかった。いったーが元々の形で、やったーは「ヤー」と「ったー」が合成されたヤマトウチナーグチだそうです。そうかー。